120年後の高知-----ゆかりの地を訪ねて

この記事は以前ブログに掲載したものをまとめたものです(2017年5月記)

「120年後の高知」というタイトルは、信時潔が書いた「60年ぶりの高知」というエッセイにちなんで付けた物です。実はそのエッセイは、神奈川近代文学館の目録を検索していて、偶然見つけたものです。ネットでも公開されている同館の蔵書目録で著者「信時潔」として検索したところ、朝日放送編 『小さな自画像:“わが幼き日"101人集』 東京 朝日新聞社 1954.6.30(昭29)  (朝日文化手帖 29 ) がヒットしたので、閲覧請求してみたところ、信時潔 「六十年ぶりの高知」 が出てきました。

見開き2ページの短いものですが、0歳から5歳ぐらいまでを過ごした、高知についての記憶がさほどあるとは考えていなかったのでちょっとした驚きでした。

「私は明治二十年大阪江戸堀に生れ、一ヵ月たって土佐の高知に移り、六歳の時まで同市の鏡川に沿う唐人町におりました。そして昨年六十年ぶりで幼なじみの高知を訪ねました。」で始まる文章。(実際高知に住んでいたのは何歳から何歳までか、については、もう少し検討が必要だと思います) これを読んで以来、高知は気になる土地でした。

今年、まずは航空券を手配して、自分の決心を固め、現在わかっていること、調べたいことを整理して、高知に向かいました。

高知について、もうひとつ参考になるのは、吉岡愛著『父を語る』です。この本は、信時潔の父、牧師だった吉岡弘毅について、潔の三つ年上の兄、吉岡愛(めぐむ)が書いたものです。その一部に「吉岡愛伝 我が辿り来たりし途(自叙伝)」が掲載され、「我が少年時代 その一 高知時代」には、当時の様子が詳しく書かれています。

以上の資料を主な手がかりとして、信時(当時は吉岡姓)潔が約120年前に幼少期を過ごし、約60年前に再訪した高知を、さらに60年ぶりに訪ねる旅となりました。

三日間の滞在で、本当にいろいろなことがありまして、とても全部は書ききれませんが、ゆかりの地の写真をいくつか紹介いたします。

信時潔は、明治20年代に「高知市西唐人町」に住んだということですが、詳しい番地まではわかっていません。

「幸い元住んでいたあたりに宿が得られ」とあるのが、いったいどの旅館かと、事前に多少調べたのですが、決め手がなく、六十年も経っては仕方ないと諦めかけていたところ、鏡川沿いにある木造二階建ての旅館が目に留まり、ピンと閃きました。それは、割烹旅館「臨水」さんです。突然のことでしたが、事情をお話したところ、女将とそのお母様が快くお話をしてくださいました。
現在の「臨水」は戦後山内家宝蔵跡に、同じ鏡川沿いの「潮江橋」の北詰に建てられた「本館」に対して「新館」として建ったもの。信時潔が昭和27年に宿泊したのはどうやら昭和初年に開業した「本館」だったようです。

(写真は、2010年10月現在の「臨水」)

現在の割烹旅館「臨水」のホームページにも、昭和初年に建てられた木造三階建ての旅館の写真が載っています。高知は空襲に遭い、町が焼けてしまったそうですが、この「本館」は地域の方の協力で残ったそうで、昭和27年頃は旅館として営業していたとのこと。

その頃の「宿帳は残っていませんか」と尋ねてみましたが、昭和50年代に二度にわたって鏡川が氾濫し、帳場も水害に遭ったため残っていないそうです。

「その二階の縁側から、川をへだてて前に横たわる筆山(ひつざん)の姿を眺め」たその景色は、たぶんこのようなものだったのでしょう。赤い橋が「天神橋」です。「近所の豆腐屋の売子たち」が、天神橋の「欄干に腰掛けておやつに貰った油揚げをたべていたのが目に浮びます」とあるのは、「唐人町」についての、このページにある情報と結びつきました。http://www.massage117.com/pc-choumei-nishi-toojin-machi.html 明治時代の西唐人町は、確かに豆腐屋さんの町だったようです。
天神橋

吉岡愛著『父を語る』には、「土佐生活中に於て忘れんとしてわすれることのできぬ今一つの記憶は、大洪水の経験である」とあります。三つ違いの潔も、「前の川が氾濫すると畳を積み上げて二階に移り」「川上から色々な物が流れて来るのを眺めました」と書いています。

高知県立図書館の『高知県災害異誌』(1966序)によれば、明治23年9月11日の台風で、大きな被害が出たようです。新聞を丹念に調べたわけではありませんが、9月26日の『土陽新聞』には、「本月十一日ノ洪水ハ実ニ未曾有ノ変災ニシテ」と義捐を求める記事がありました。

現在の地図を見ても「唐人町」というのは川沿い一列だけの「町」です。一階の座敷が一面浸水して、二階で過ごしたという家は、この川沿いのどこかにあったのでしょう。


「対岸の天神様」というのは、潮江天満宮でした。


その天神様の手前にある大楠は地元の方は誰でも知っているようです。
その大楠の枝振りを見て、潔少年が、 3歳上の兄・愛(メグム)、8歳上の兄・徹と、この木によじ登ったり、川に向かって飛び込んだりしていた姿が浮かんできました。


良く遊びにいったという旧城址、高知城。兄・愛も腕白仲間と探検に行った、などと書いています。



そして、いよいよ最後の日に、潔の父・吉岡弘毅が、その二代牧師となった「高知教会」を訪ねました。

信時潔の実父・吉岡弘毅は高知教会の第二代牧師でした。最終日の朝、教会にお電話で事情をお話したところ、どうぞいらっしゃいとのことで、早速教会に向かいました。実は、現在の牧師様は比較的最近着任なさったと伺っていたので、昔のことはご存知ないだろうと今回直接訪問を躊躇していたのです。ところが副牧師として長らくこの教会にいらしたとのことで、過去のことについても大変詳しく、説明、案内をしてくださいました。


吉岡弘毅が、大阪北教会から、この高知へ移ってきたのは明治21年。『高知教会百年史』によれば、明治21年は、教会の日誌が偶然残っているので、明治21年1月1日に、現在の教会堂の位置に新しい会堂ができたこと、同年6月26日に吉岡牧師が着任したこともわかりました。
前日に、高知市民図書館で『 高知教会百年史』を閲覧していましたが、閲覧席でざっと目を通しただけでは、情報を拾いきれず、不安に思っていたところ、教会にまだ在庫があるそうで、一冊頒けていただきました。(頒価2,000円)

吉岡弘毅牧師時代の長老には「片岡健吉」「坂本直寛」の名もあり、信徒の数は明治21年512名、明治25年578名。教会堂は現在の建物が三代目で、建物の向きは変わりましたが同じ敷地内だったそうです。
写真は、今現在の教会ですが、中央やや左寄りに見える蘇鉄(そてつ)や、その周りに配された石は最初の会堂が出来た時=明治21年当時からここにあるのではないか、とのことでした。

教会の場所は高知市本町(地図リンク)、自宅は鏡川に面した西唐人町のこのあたり(地図リンク)。直線距離で800m程。吉岡一家の子供たちも、両親と一緒に教会に通ったのでしょうか。教会にはオルガン、そして西洋音楽もあったでしょう。      



高知には、もうひとつ気になっている事がありました。戦後早い時期の「海道東征」再演です。演奏のデータは交声曲「海道東征」 上演記録 のページに載せています。

昭和28年、第六回フラワーソングクラブ定期演奏会で、ピアノ伴奏版の上演。翌年の第七回定期演奏会では、高知交響楽団による管弦楽伴奏で上演されました。

私が高知での海道東征上演を調べたのは、昭和62年(1987)のことです。ちょうど阪田寛夫先生が、小説「海道東征」を書かれたあとで、東京での朝日放送の「再演」については、情報が揃ったので、次に岡山、高知、九州での戦後上演の詳細を確認しようと思ったからです。 断片的な情報から、当日の指揮者で、フラワーソングクラブ主宰者の橋本憲佳(海道東征上演当時のお名前は橋本正夫。東京音楽学校在学当時のお名前は後藤正夫)先生に連絡がつき、プログラムや、当時信時とやりとりした葉書のコピーなどを送っていただきました。お手元には当時の録音テープもあるとのことでした。 

(橋本憲佳先生に頂いた「海道東征」上演プログラムの複写)


橋本先生とは何度か郵便や電話でのやりとりがあり、いつかお目にかかれればと思っていたのですが、四国訪問の時が来た今回、その橋本先生が2003年に亡くなられたことをインターネット情報で知りました。

昭和28,29年の再演は高知新聞社の後援だったので、『高知新聞』に案内記事、批評記事などがあるかと思っていたのですが、見つけることは出来ませんでした。終戦後8年のこの当時は、まだ新聞のページ数が少なく、記事にはならなかったのかもしれません。

もうこれ以上の情報は出ないかと諦めていたのですが、『高知新聞』の天野記者のご紹介で、崎山ひろみ様にお目にかかることができました。崎山様は、開拓・移民の研究者で、高知教会の年史をお持ちで、その当時のことにも詳しい、というところから話が始まったのですが、御自身も高知教会の信徒であるばかりでなく、歌がお好きで合唱団に属したことがある、それがフラワーソングクラブで・・・と話が広がり、海道東征の上演時に舞台で歌っていたことがわかりました。そして、そこはさすが資料研究者だけあって、なんと「海道東征」上演当時の合唱パート譜をお持ちだったのです。


橋本憲佳先生から上演当時パート譜の入手に苦労したことは伺っていました。芸大からはなかなか借りられず、放送局から借りてはどうか、などという話もあったようです。橋本先生からいただいた資料から、下總皖一、木下保らに相談していた様子が伺えます。そして、スコアはどうやら作曲者の手元にあったものを提供したというところまでは判明したのですが、結局パート譜はどこから借りたのか?高知交響楽団に確認してみましょうと仰って頂いたのですが、ついに連絡はなかったので、パート譜はどこから手配したものなのか、はっきりわかりませんでした。

今回崎山様に見せていただいた楽譜は、最初の数枚の五線紙にNHKの名が入った合唱パート譜(ピアノ伴奏なし)。手書き楽譜の謄写版印刷。それはつまり、東京音楽学校の合唱団が使っていた共益商社版のピアノ・ヴォーカルスコアとは違うものでした。

(崎山さん所蔵。「海道東征」合唱パート譜)


表紙のデザインは以下の共益商社の管弦楽版に似せてあります。白ヌキ部分の枠上部、勾玉風のデザインは同じですが、当然のことながら、その上部の日本文化中央連盟主催、 皇紀二千六百年奉祝芸能祭制定、の文字はありません。

(交声曲「海道東征」 共益商社書店 1943.10 管絃楽総譜)


以上のような三日間の旅を終えて、帰ってまいりました。

実は、ここにはとても書ききれないほど、高知の方の暖かさに触れる、すばらしい旅でした。祖父・潔も60年前に、ただ道を尋ねただけでも、予想外の親切にあって感激しています。今回の私の旅もそうでした。こんなことを調べてますと、突然現れた私に対して、どの方も本当に親身になって、お世話してくださいました。

ほとんど町の中を、徒歩と自転車(ホテルで貸してもらえて助かりました)で廻りましたが、一日だけ、桂浜まで足を伸ばしました。というのは、60年前に祖父が亀に箸で餌をやれると感心していた水族館を見てみたかったからです。残念ながら、亀はおなかがいっぱいで餌をあげることは出来ませんでした。今年の高知は「坂本龍馬」で一層盛り上がっているようでしたが、そのような観光施設を回る間もなく、みなさまのご親切に接し、充実した三日間を過ごし、いろいろな情報を仕入れてまいりました。

お世話になったみなさま、どうもありがとうございました。

(2010年10月 信時裕子)

 
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