信時潔年譜

信時潔年譜 (信時裕子編)


●各作品の作曲年については、こちらをご覧ください。
●各年に「作品」を配した年譜は、春秋社版『信時潔独唱曲集』『信時潔合唱曲集』『信時潔ピアノ曲集』の各巻末付録として掲載されています。
● SPレコード収録作品情報を加えた年譜は、CD 『SP音源復刻盤 信時潔作品集成』別冊解説書に掲載されています。
●『生誕125年 信時潔とその系譜』プログラム冊子にも年譜を載せています。

(NDLデジタルライブラリー)とある事項は、国会図書館近代デジタルライブラリーで公開されている関連情報ページにリンクしています。


1887年(明治20)
12月29日 大阪で、父・吉岡弘毅、母・とりの三男として生まれる。
父は当時、大阪北教会の牧師だった。
1888年(明治21、1歳)
父が高知教会に赴任するため、高知の西唐人町に移る。
1892年(明治25、5歳)
父が京都の室町教会へ赴任。京都市上京区衣棚通下立売上ル常泉院町七番戸に移る。
ミッションの補助を受けて教会の隣接地に幼稚園を建て、母は設立者として尽力した。
1894年(明治27、7歳)
4月 京都市立滋野尋常小学校入学。
1897年(明治30、10歳)
父が再び大阪北教会に赴任するため、大阪へ移る。
9月 大阪市立中之島尋常小学校へ転校。
1898年(明治31、11歳)
4月 大阪市立盈進高等小学校へ進学。
12月 大阪北教会の四長老の一人、信時義政と妻・げんの養子となる。
1899年(明治32、12歳)
4月 大阪府立師範学校付属小学校高等科へ転入学。
1901年(明治34、14歳)
4月 大阪府立市岡中学校に入学。
同級生に画家の小出楢重や、のちに国立がんセンター初代総長になった田宮猛雄、
東洋言語学者の石濱純太郎がいた。
1905年(明治38、18歳)
3月 大阪府立市岡中学校第4学年終了。
6月 東京音楽学校受験準備のため上京。
9月 東京音楽学校予科入学。
1906年(明治39、19歳)
9月 東京音楽学校本科器楽部入学。チェロ専攻。
アウグスト・ユンケルに指揮法、ハインリッヒ・ヴェルクマイステルにチェロと作曲、
ルドルフ・ロイテルに対位法、和声学を学ぶ。
この頃、東京府北豊島郡滝野川村大字田端に住む。
1907年(明治40、20歳)
この頃から画家熊谷守一との親交が始まる。
後に長女・はるが熊谷の長男に嫁いで姻戚となる。
1909年(明治42、22歳)
10月 東京音楽学校学友会演奏会でチェロを独奏。
1910年(明治43、23歳)
3月 東京音楽学校本科器楽部卒業(NDLデジタルライブラリー)、のち研究科器楽部に進む。
10月 東京音楽学校学友会演奏会で、萩原英一、川上淳、大塚淳と共にシューマン作曲「ピアノ四重奏曲」(作品47)を演奏。
1912年(明治45、25歳)
3月 東京音楽学校研究科器楽部修了(NDLデジタルライブラリー)、のち研究科作曲部に進む。
1915年(大正4、28歳)
3月 東京音楽学校研究科作曲部修了(NDLデジタルライブラリー)。
8月 東京音楽学校助教授となる。
1916年(大正5、29歳)
11月 東京音楽学校「皇后行啓演奏会」でアントン・ルビンシテイン作曲「チェロ・ソナタ第1番」演奏(高折宮次伴奏)。
1919年(大正8、32歳)
7月 養父・義政死去。家督相続。
8月 チェロと作曲の研究のため文部省派遣在外研究員として二年間、アメリカ合衆国及びスイスへ留学する予定だったが、義政の死去により延期。
1920年(大正9、33歳)
3月 文部省在外研究員として横浜出発。留学先にドイツが追加されたため、ベルリンに向かう。5月、ベルリンに到着。
8月 Akademische Meisterschulen fur Musikalische Kompositionに於て、ゲオルク・シューマンに就き作曲を研修。
また、ヴィリー・デッケルト に就きチェロを研修したほか、現地演奏家の合奏に加わり室内楽を研究。
1922年(大正11、35歳)
5月 ベルリン出発。フランス、イギリス、スイス、イタリアを廻る。
8月 横浜に帰着。東京府北豊島郡巣鴨町に住む。
1923年(大正12、36歳)
1月 白坂ミイと結婚。ミイは東京音楽学校甲種師範科を1915年(大正4)3月に卒業。
6月 東京音楽学校教授となる。この後、チェロの門下に小澤弘、呉泰次郎。
1932年(昭和7)本科作曲部新設までの作曲の門下に、細川碧、下総皖一、橋本國彦、長谷川良夫、益子九郎らがいる。
12月 長男・太郎生まれる。
1924年(大正13、37歳)
12月 東京府北多摩郡国分寺村字本多新田270番地に移転。
1925年(大正14、38歳)
1月 訳書『全訳コールユーブンゲン』刊行。
8月 片山穎太郎と共訳『楽式論』刊行。
11月 片山穎太郎と共訳『管絃楽器論』刊行。
1926年(大正15、39歳)
2月 長女・はる生まれる。
7月 著書『標準楽典教科書』刊行。
1927年(昭和2、40歳)
5月 片山穎太郎と共訳『音楽通論』刊行。
6月 平井保三と共編『セロ教本第1巻』刊行。
1928年(昭和3、41歳)
3月 平井保三と共編『ヴィオロン・セロ名曲集第1巻』刊行。
11月 次男・次郎生まれる。
1929年(昭和4、42歳)
6月 平井保三と共編『セロ教本第2巻』刊行。
11月 東京音楽学校唱歌編纂掛編纂員となる。
1930年(昭和5、43歳)
1月 東京音楽学校管絃楽部員となり、7月より管絃楽部長。
1932年(昭和7、45歳)
東京音楽学校本科の作曲部の創設に尽力。
4月 本科作曲部新設と同時に、自身は教授を辞し、講師となる。この後の門下に、柏木俊夫、高田三郎、大中恩、奥村一、齋藤高順、渡鏡子らがいた。
5月 「音楽コンクール」作曲部門の審査員を務める(1947年まで)。
9月 実父・吉岡弘毅死去。
12月 三男・三郎生まれる。編纂に携わった教科書『新訂尋常小学唱歌』(文部省)刊行。
1935年(昭和10、48歳)
編纂に携わった教科書『新訂高等小学唱歌』(文部省)刊行。
1936年(昭和11、49歳)
7月 片山穎太郎、益子九郎と共編『日本学生歌』刊行。
1937年(昭和12、50歳)
日本放送協会の委嘱により「海ゆかば」作曲。
10月、初放送。
1940年(昭和15、53歳)
11月 紀元二千六百年奉祝芸能祭制定の演奏会に於て、交声曲「海道東征」全曲初演。
1941年(昭和16、54歳)
ビクターより「海道東征」レコード発売(8枚組SP)。
5月 東北民謡試聴団に参加。
1942年(昭和17、55歳)
3月 長男・太郎を亡くす。
6月 満州の音楽事情を視察。
8月 芸術院会員となる。
1943年(昭和18、56歳)
1月 朝日賞受賞。
4月 中日文化協会全国文化代表大会(南京)に派遣された文化使節(鹽谷温団長)に楽壇代表として参加。
9月 「木下保独唱会 信時潔の夕」に於て、「『鴬の卵』より」「沙羅」「小曲五章」「小倉百人一首より」が演奏される。
1948年(昭和23、61歳)
生成会の同人となり、雑誌『心』に寄稿。
最晩年までに取り上げたテーマはバッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、バルトーク、カザルス、ゲーテ、雪舟、南方熊楠等。
この年より「音楽コンクール」顧問となる。
1950年(昭和25、63歳)
5月 『信時潔独唱曲集』(春秋社)刊行。
7月 『信時潔合唱曲集』(春秋社)刊行。
1951年(昭和26、64歳)
3月 胃潰瘍で東大分院に入院。6月、退院。
6月 『信時潔合唱曲集』(信時潔編 音楽之友社)刊行。
1952年(昭和27、65歳)
教科書「私たちの音楽」監修。
1954年(昭和29、67歳)
3月 東京芸術大学音楽学部 講師退任。
1955年(昭和30、68歳)
教科書「小学校音楽」監修。
1957年(昭和32、70歳)
雑誌『心』9月号に自伝的記事「問はれるままに」掲載。
1958年(昭和33、71歳)
12月 『信時潔ピアノ曲集』(春秋社)刊行。
1962年(昭和37、75歳)
雑誌『心』11月号に「音楽思い出話―40年前のベルリン楽壇」掲載。
1963年(昭和38、76歳)
11月 文化功労者として顕彰される。
1964年(昭和39、77歳)
11月 叙勲、勲三等旭日中綬章。
1965年(昭和40)
8月1日 心筋硬塞のため東京都国分寺市本多の自宅で死去(77歳)。
東京都豊島区の雑司が谷霊園に眠る。

 
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